![](./pic/pic_1.jpg)
![](./pic/pic_2.jpg)
![](./pic/pic_3.jpg)
![](./pic/pic_4.jpg)
合掌
当山は、創建四百年を迎えようとしています。
私が住職として赴任して五十年近くなりますが、その中でも忘れられない出来事の一つがあります。
それは平成24年11月24日に新しく日蓮さまの御像が開眼法要されました。この経緯は、まず以前から法妙寺本堂の右奥脇側にある山斜面が急傾斜のため年を重ねるごとに木が傾き倒れはじめるなど、いつ土砂崩れしてもおかしくない状況であり、崖下の民家や住人に対し危険な状況となっていました。
そこで平成18年に大規模な急傾斜地の土砂崩れ防止工事は県の助成と地主と近隣住民の協力によって傾斜地整備計画を立てました。話し合いを重ね工事は無事に進むかと思っておりましたが、私にとってある大きな決断をしなければならないことになりました。
それは樹齢500年を超すであろう大きな楠の木がその急傾斜地にあり「もしこの先、土砂崩れによる倒木で下の民家や住人に甚大な被害がでるであろう」という施工業者からの説明でありました。
しかし、この楠の木は代々、法妙寺の御神木であり先代の師父から「この木はいかなることがあっても切るべからず」との遺言でありました。
私は悩みに悩みぬいて決断し「たとえこの木が伐採されても拝まれ続ける木となればいい」と考え、さっそく旧縁のあった西海町の実相寺総代の岩本さんの計らいにより伐採していただき、その木材を使って、まずは大太鼓を法妙寺檀徒有志の方々より制作奉納いただきました。
また私は大学生時代に東京池上本門寺様に6年間随身として勤めていた折、大本堂に安置されている日蓮さまの御像を毎日のように拝んでおりました。それは日蓮聖人滅後の7回忌(正応元年、1288年)に造立された「日蓮聖人坐像」(指定重要文化財)であり、現存する御像の中で最も古く最も御顔が似ていると言われているものであります。「いつかは自坊でも同じお祖師さまを拝めたら」というのが、私の夢でもありました。その願いを込めて早速、当時の池上本門寺貫首酒井日慈猊下の御許可を戴き、この楠の木の伐採を機にこのような運びとなりました。
また開眼法要後に摩訶不思議な事実が発覚致しました。それは日蓮さまの御像を仏師の帆刈さんにお願いをしておりました。制作中に私が「違う、似ていない、やり直しだ」と厳しい注文に3度のやり直しをしていただき、4度目にてやっと私が「これでよい」と許可をしましたが、その電話の最中に「ピシッ」と亀裂が入る音がしたそうです。帆刈さんが「まさか、御像のどこかに亀裂が入ったのでは?」と思ってみてみると御像の頭の額にヒビが入っていました。
何度もやり直しを命じられ、何度も怒られてきたものですから、帆刈さんはこの事実を私に隠そうとしていたそうです。ところが開眼法要前日に本堂内にある日蓮聖人一代記を見て小松原法難で日蓮さまが刀で額を切られたことを初めて知り、開眼法要後のお祝いの席で初めてその事実を私に恐る恐る告白してきました。
それを聞いた私は怒ることはなく逆に「それは不思議なことだ。」他のお上人様方からも「奇瑞だ。めでたいことだ。生きた日蓮さまだ」と喜ばれ、帆刈さんもやっと肩の荷がおりたようでした。
このようなお祖師さまであります。これからもずっと私たちをお守りくださることでありましょう。
当山は朝の6時から18時まで開堂しております。どうぞ御参拝下さい。
再拝
法妙寺は寛永四年(1627年)に大村藩主純信により創設されました。
(長与町郷土史や長与町人詩などには寛永四年と多く書かれていますが、大村郷村記には正保四年と記述あり、創建年度二つの説があると思われます。)
当初、山号を長林山と称しましたが、のち元禄年間(1688年~1704年)に大村純長が、長与村を巡回した際、その命により長昌山と改めました。
開基は、熊本から大村本経寺三世に迎えられ、さらに当時に招かれた聖林院日忠上人です。
上人は同時に、彼杵妙法寺も創設しました。
昭和五十七年(1982年)には日蓮聖人七百遠忌を記念して総改築され、寺観を一新しました。
永禄六年(1563年)大村純忠がキリスト教の洗礼を受けて以来、大村藩のキリシタンは急速に増え、二十年後の天正十年(1582年)には六万もの信者を数えました。
しかし、天正十五年(1587年)豊臣秀吉によりキリシタン禁令が出され、翌年には長崎・浦上・茂木のイエズス会も天領として没収されました。
純忠の子喜前も洗礼を受けていましたが、徳川幕府の意向を考えて、親交のあった熊本の加藤清正公と相談の上、その菩堤寺、本妙寺から法性院日真上人を招き、大村城下に本経寺を建立しました。
そして自らもキリスト教をすてて、日蓮宗に帰依しました。江戸に幕府が開かれたばかりの慶長十年(1605年)の頃です。
その後、かくれキリシタンの事件などを経て、藩をあげての法華への改宗の証として領民への教化のために、藩内各地に次々に日蓮宗の寺院が建てられました。
今日、大村八ヶ寺と呼ばれています。法妙寺はそのうちのひとつにあたります。